コジコジという作品꒰(๑´•.̫ • `๑)꒱

こんにちは。小木曽です。
今日も緩めの話をしたいと思います。コジコジに関して。このテーマの時点でもうゆるい記事ですよね。
最近私のTwitterフォロワー界隈でほんのわずかにコジコジが流行りました。これだけは言わせてもらうときっかけは多分僕です。とある女の子をコジコジ認定したところから全てが始まったと思っています。
だからそろそろね、満を持してコジコジの記事を書こうと決めました。
コジコジとの出会い
僕がコジコジと出会ったのは小学校の夏やすみ。テレビでアニメ/コジコジの再放送を見たのが初めての出会いでした。
正直、震えるほど面白くてめちゃくちゃ爆笑していた記憶があります。特にコジコジが次郎くんの発言に過剰に落ち込んで次郎くんの反応を楽しむシーンは今でも覚えています。
この時はただのギャグアニメくらいにしか思っていなかったのですが、中学校の頃、コミックスのコジコジを大人買い(当時全3巻)したころから、少しコジコジに対してのイメージが変わって見えてきました。
コジコジと次郎くん
大前提として、コジコジは宇宙の子供です。宇宙そのものです。知ってましたか?
コジコジが全てを消そうと思った瞬間、全てが消えてしまいます。実際そうなりかけたエピソードもあります。亀吉くんのお茶断ちエピソードですね。
そんなコジコジですが、自分のことをこう説明しています。
そう、自分は自分。これまでもこれからも。すごくいい言葉ですよね。僕も中学生ながらいいこと言うなコジコジとうっすら思っていました。
その言葉に感動した次郎くん。完全に影響を受けます。
・・・
彼、このあと母ちゃんにぶん殴られます。何言ってんだお前って。有名にでもなって稼げって。そう言って第一話が終わります。
なんか、深いようでよくわからない感じで終わるなと昔は思っていたのですが、最近わかりました。
そういう時代だったんだなと。世の中の空気がそんな感じだったんだと思う。自分らしく生きようとしても、結局決まったレールを進むことを強いられる時代の漫画だからこそ、最終的にはこういう着地になったんです。世の中の縮図だったんですね。
だから当時リアルタイムで読んでいた若者と、今この漫画を読んだ若者で全く感じ方が変わる。
おそらく昔はコジコジになりたいと言ったらバカにされていたのだけれど、今の時代にSNSで「コジコジになりたい」といえば応援してくれる人もたくさんいます。もちろんその人の人間性にもよりますが。
そう言った時代背景が読み取れる、実は深い漫画だなと思いました。
コジコジのように生きる
自分らしく生きる。自分を受け入れて生きる。そういう空気が今世の中に蔓延してきている気がします。
そして自由に生きれる時代になったからこそ、どうしていいかわからず人と比べてしまう。そして劣っている面に意識がいってしまって辛くなる。そんな悪循環が生まれています。
だからこそ、自己理解だとか、自分らしく生きるとかって言葉が徐々に徐々に広まってきているんだと思います。自分にもダメなところはあるけど、それはそれ。人と違うんだってことを肯定する空気が出来上がってきている。
でも、この空気もそんなにいきなり大きく爆発はしないと思う。
なぜか。今表に出ている人や、目立っている人は、まだまだ旧来の価値観の人が多いから。なかなかそこはひっくり返せないです。
とはいえ、そんな空気にも負けずに生きていく勇気も必要です。
そもそも生きていくためには困らない世の中に生きているのに、みんな何かに悩んでいるって、おかしなことだとおもうんですよね。
生きるってもっと楽でいいと思うんです。
人としての最低限のルール
次郎くんの母親のようにぶん殴ってくる人はまだまだいるけど、少しは世の中が優しくなってきている気がするので、もっともっと自分らしく生きていこう。
そして最後に1つだけ言いたいのは、次郎くんはぶん殴られても仕方ないところもあります。ただ欲望のままに生きていようとしただけだから。
コジコジはなんだかんだ言っても、奉仕の心があります。人が困っている時に助けてあげたり、人としての本能に忠実に生きているだけなのでそもそも人として間違ったことはしないんです。
与えてられるものがあったら与える、お互いがお互いを支え合わないとバランスが崩れてしまう。みんながちゃんと奉仕の心と思いやりを持っていたら、もっと平和な世の中になるんだと思います。
そんな感じですかね。
そして結局ぶん殴られた次郎くんはこれまで通り、ある意味次郎くんらしく生きていくのでした。
めでたしめでたし。
てことでまだまだ書き足りないけど、キリがないのでこの辺で。気が向いたらまた書きます。
今回は以上
小木曽